対面石八幡神社(静岡県駿東郡清水町)
国道1号線を三島方面から走っていて、こんな看板を見かけたら左折しましょう。
すると右手に神社参道発見。
ちなみに神社前の道は旧東海道です。
神社前着。
境内地図。色々と気になりますね。
源頼朝公をお祀りする白旗社。
そういえば鶴岡八幡宮の旗上弁財天社がありますね。
拝殿はセンサーで自動開閉するシステム。
神社名:八幡神社
鎮座地:静岡県駿東郡清水町八幡39
御祭神:譽田別命(応神天皇)、(相殿)比売神、息長足姫命(神功皇后)
社格:旧郷社、式内論社
境内:2092坪
例祭:9月敬老の日
宮司:勝又清
【由緒】
治承四年(一一八〇)八月、平家追討の軍を起こした源頼朝公は関東・伊豆を平定し、十月、富士川の合戦のため、この黄瀬川八幡の地に本営を造営しました。兄頼朝の挙兵支援のため、はるばる奥州よりかけつけた義経と、境内にて涙ながらに対面し、平家打倒を誓ひあひました。今も御殿西側には兄弟が対面した記念のため、みづから植へたと伝へられる「ねじり柿」二本とともに、対面石が置かれてゐます。
創立年代は未詳ですが、駿河の国の桃沢神社の故地とも、伊豆の国の小川泉水神社(熊野八幡を祀る=当町湯川・両社とも平安時代に制定された「延喜式神名帳」に載せられている古社)のうち八幡を遷し祀ったともつたへられてをります。これ以後頼朝公は社殿の再建、境内の整備などをおこなひ、今川・北條氏などは諸役免除・禁制などをつけました。
徳川家康公は天正十九年(一五九一)これまで足柄越へであった東海道を箱根越へに改めたとき、西向きであった社殿を南向きにし、新しく長沢の地を割いて街道に面した参道をつくりました。社領二十石(後に実高四十石)を給し、八幡大菩薩のときざんだご神刀をも奉納、天下泰平を祈願いたしました。
また駿河・伊豆両国境の神、街道守護の神として部門・武将はもとより往来の旅人、近郷近在の庶民にいたるまで篤い崇敬が寄せられました。
近代国家として出発した明治政府より、同八年、神社制度の改革が行はれたとき、古代からの由緒沿革をもとに、清水長泉両地域の郷社に列せられたのであります。
ちなみに当町柿田川の湧水群は当地八幡の泉に属し、ご神域であって、当社が泉郷総社といはれた因ともなってをります。
【頼朝義経兄弟の対面石 八幡神社御由緒より抜粋転載】
桃沢神社というとこの式内社のことでしょうか。小川泉水神社も式内社でありますね。
柿田川湧水群がこちらの神域だとは知りませんでした。前通ってきたのに。
八幡神社御朱印。
実は…
社務所を尋ねる→おばあさま応対→御朱印をお願いする→宮司は留守なので印だけね、と押していただく→住所の印でした→その後、割狐塚稲荷神社へ→社務所で御朱印をお願いする→八幡神社の印を見て「おばあさん、わからなかったんだねぇ」→稲荷神社と一緒に八幡神社の御朱印も押していただく。
という訳で、こんな感じになりました。
同じ宮司さんだった故に起きた出来事でした。
御本殿とその東側に境内社。御本殿は覆殿で保護されていますが、総欅造りとこのと。
御本殿の西側にありました、対面石。
実際に座れそうです。
しまった、実際に座ればよかった…。
神社西側入口にある、随分古そうな石。
東海道が箱根越えになる前の参道にあった、鎌倉時代作と推定される御随神(奇石窓神・豊石窓神)という。
神社の参道で時々見かける楼門のことを随神門というけど、あの随神の簡易版ということでしょうか。
形を留めているほうをアップで。
完全な形で見たかったな。
すると右手に神社参道発見。
ちなみに神社前の道は旧東海道です。
神社前着。
境内地図。色々と気になりますね。
源頼朝公をお祀りする白旗社。
そういえば鶴岡八幡宮の旗上弁財天社がありますね。
拝殿はセンサーで自動開閉するシステム。
神社名:八幡神社
鎮座地:静岡県駿東郡清水町八幡39
御祭神:譽田別命(応神天皇)、(相殿)比売神、息長足姫命(神功皇后)
社格:旧郷社、式内論社
境内:2092坪
例祭:9月敬老の日
宮司:勝又清
【由緒】
治承四年(一一八〇)八月、平家追討の軍を起こした源頼朝公は関東・伊豆を平定し、十月、富士川の合戦のため、この黄瀬川八幡の地に本営を造営しました。兄頼朝の挙兵支援のため、はるばる奥州よりかけつけた義経と、境内にて涙ながらに対面し、平家打倒を誓ひあひました。今も御殿西側には兄弟が対面した記念のため、みづから植へたと伝へられる「ねじり柿」二本とともに、対面石が置かれてゐます。
創立年代は未詳ですが、駿河の国の桃沢神社の故地とも、伊豆の国の小川泉水神社(熊野八幡を祀る=当町湯川・両社とも平安時代に制定された「延喜式神名帳」に載せられている古社)のうち八幡を遷し祀ったともつたへられてをります。これ以後頼朝公は社殿の再建、境内の整備などをおこなひ、今川・北條氏などは諸役免除・禁制などをつけました。
徳川家康公は天正十九年(一五九一)これまで足柄越へであった東海道を箱根越へに改めたとき、西向きであった社殿を南向きにし、新しく長沢の地を割いて街道に面した参道をつくりました。社領二十石(後に実高四十石)を給し、八幡大菩薩のときざんだご神刀をも奉納、天下泰平を祈願いたしました。
また駿河・伊豆両国境の神、街道守護の神として部門・武将はもとより往来の旅人、近郷近在の庶民にいたるまで篤い崇敬が寄せられました。
近代国家として出発した明治政府より、同八年、神社制度の改革が行はれたとき、古代からの由緒沿革をもとに、清水長泉両地域の郷社に列せられたのであります。
ちなみに当町柿田川の湧水群は当地八幡の泉に属し、ご神域であって、当社が泉郷総社といはれた因ともなってをります。
【頼朝義経兄弟の対面石 八幡神社御由緒より抜粋転載】
桃沢神社というとこの式内社のことでしょうか。小川泉水神社も式内社でありますね。
柿田川湧水群がこちらの神域だとは知りませんでした。前通ってきたのに。
八幡神社御朱印。
実は…
社務所を尋ねる→おばあさま応対→御朱印をお願いする→宮司は留守なので印だけね、と押していただく→住所の印でした→その後、割狐塚稲荷神社へ→社務所で御朱印をお願いする→八幡神社の印を見て「おばあさん、わからなかったんだねぇ」→稲荷神社と一緒に八幡神社の御朱印も押していただく。
という訳で、こんな感じになりました。
同じ宮司さんだった故に起きた出来事でした。
御本殿とその東側に境内社。御本殿は覆殿で保護されていますが、総欅造りとこのと。
御本殿の西側にありました、対面石。
実際に座れそうです。
しまった、実際に座ればよかった…。
神社西側入口にある、随分古そうな石。
東海道が箱根越えになる前の参道にあった、鎌倉時代作と推定される御随神(奇石窓神・豊石窓神)という。
神社の参道で時々見かける楼門のことを随神門というけど、あの随神の簡易版ということでしょうか。
形を留めているほうをアップで。
完全な形で見たかったな。
この記事へのコメント
過去の自分? それとも義経さま?
夢が有るけど、ちと怖いかも?
御神徳として「あなたが今一番会いたい人に対面できる」というのは如何でしょう。
過去のあの人からあこがれのあのスターに!ってやったら怒られますね。
対面石、以前は国道の歩道のわきにあって3畳くらいの広さでした
ガキんちょの頃はあそこを通るとあの石に座って休憩したもんです
確かに、鎌倉時代の史跡にしてはきれいに整いすぎるかなと。
これが道端にあって乗らない子供のほうが珍しい